Bumbum-Project
NewsLetter
2004.09.10,No.18
さようなら、魚住けいさん
さようなら、ジョン・アンジャインさん
ブンブンプロジェクト京都事務局代表の魚住けいさんが6月26日、京都の日本パプティスト病院で乳がんのため亡くなられた。
3月の告知後は自宅とホスピス病棟で療養されていた。享年58歳。魚住さんはブンブンプロジェクトの発足時から京都事務局の代表で、物心両面で熱心に活動を支えていただいた。ロンゲラップ島民の窮状に寄せた熱い思いや考え方(ブンブン通信10号『憂愁の島に残る想い』)は私たちのマーシャル支援の精神的原点でもあった。
ジョン・アンジャイン元ロンゲラップ村長が7月20日、ハワイのストラブ病院で亡くなった。この6月からハワイで療養中だったが、胃か、肺がんが全身に転移、肺からの出血がもとで死亡した。ご遺体はイバイ島に戻り、全島民が参列して葬儀が行なわれ、イバイ島に埋葬された。
お二人のご冥福を心からお祈りします。
つれあいだった家中茂さんから魚住さんの追悼文をいただいた。また、今年2月、現地でジョンさんに会った沢田猛さんに、3面でジョンさんとの思い出を書いていただいた。
ブンブンプロジェクトでは、7月11日に沖縄県那覇市で行なわれた魚住さんの「お別れの会」に供花にお送りした。ジョン・アンジャインさんには現地の週間紙マーシャル・アイランズ・ジャーナル8月6日号に追悼広告を載せた。
魚住けいのこと
家中 茂
ブンブンプロジェクト京都事務局の魚住けい(本名・前川美智代)は6月26日に58才の生涯をとじました。
1983年夏にマーシャルに旅したときのことは『ブンブン通信』No10に、「そこで見たものは、島の人たちの絶望。深い絶望、その中でも人はやはり生きなければならないから、生きる希望が欲しい。具体的な日々の生活の中には喜怒哀楽がある。そういうもの、島の表情というか。それがマーシャルから戻ってきて、とにかく船を送りたいと、発作的に思ったときに、思い返すマーシャルというのは、だんだん彫りが深くなっていった」と書いています。
その後、彼女はその深い絶望から目をそらすことなく、もういちど沖縄で、人々の暮らしに恵みを授けつづけてきた。生きている海に出会い、白保のさんご礁の海に希望を託して(そのときから彼女は『願をかけて』、魚住けい、と名乗るようになります)。
やがて1995年に「沖縄手ヌ花・食と工芸・真南風(まはえ)」を設立します。以来10年間、彼女は沖縄の島々の個性豊かな産物を、その産物が育まれる島々の土地と人々が健やかであることを願って、全国の自然食有機農産物のマーケットに送り届けることを仕事としました。
いまでは女性スタッフ10人ほどがこの仕事をささえ、新たにスリランカとのフェアトレードも手がけたところでした。
中村尚司さんは彼女の真南風の仕事のことを、有無相通ずるだけのありきたりの商業ではなく、双方の文化を豊かにする互恵的な品性の高い交易、『聖なる市場』とよんで下さいました。
彼女との出会いは、砂田明さん(故人)の水俣一人芝居・現代夢幻能『天の魚』の裏方を私がつとめていたことからでしたが、その原作者の石牟礼道子さんが書かれた文章のなかに「悶え神」という言葉があります。
人は自分いちにんの悲しみさえ救うことはできぬのだが、それでもその無力さの無自覚なまでの自覚に立って、他の人の悲しみを自分の悲しみとしてうけとめ悶える人のことを、水俣では「悶え神」とよぶのだそうです。
「悶えてなりと加勢する」、彼女はそういう心性を備えた人であり、生まれ育った境遇や出会いや経験、時代状況に向き合い、おのれを偽らず生きてきました。
彼女を支えていたのは、まだ見ぬこれから出会う人々への信頼でした。島々は海でつながっており、わけても、生命がさんご礁の海に生まれ育まれるというイメージの喚起力でした。
先の『ブンブン通信』に彼女はつぎのように続けています。「さまざまな人の協力があってブンブンプロジェクトはマーシャルに船を一艘送ることができた。・・・これはもう支援とか運動とかいうレベルの話でなくて、もっとこう、私たちが困っているときに助け合う、隣の人につい手を差し伸べてしまうような、人間としての痛みを分かち合う、そして喜びも分かち合う、そういう普遍的な人間の営みの一つであると思う」。
(さいごに彼女自身の言葉で)「島の人々と、ブンブンプロジェクトに加わりご支援くださっている皆さまに、心から感謝いたします」。合掌 (沖縄大学助教授)
▼魚住けい(本名・前川美智代)の プロフィール
1945年10月30日 三重県松坂市に生まれる。中学卒業後、名古屋で美容院勤務。66年、名古屋ベ平連結成。平良良昭氏と結婚、72年沖縄に移住、2児をもうける。「金武湾を守る会」参加。ベラウと水俣の交流をすすめ、砂田明一人芝居の勧進元をつとめる。
83年、水爆被曝地マーシャル諸島へ。その後石垣島白保の保護運動で「海と女たちの会」に参加。さんご礁の保護を祈念し、「魚住けい」を名のる。84年、家中茂さんと京都で暮らしはじめる。87年から2年間、石垣島で暮らす。95年「食と工芸・真南風」を設立。同年、ブンブンプロジェクト京都事務局代表に。04年6月26日、京都で永眠。満58歳。墓所は京都・嵯峨小倉山・常寂光寺。
生き生きと語ってくれた
被曝前の島の暮らし
沢田 猛
ジョンさんの訃報に接し、やや冷静になってから、来日直前にお会いしたときのジョンさんのことばがありありとよみがえってきた。
高齢に加え、体調不良。さらに遠路の旅をして、今年の「ビキニデー」に来日したのはなぜか。こんなことをジョンさんに聞いたときだった。ジョンさんは「体力的にも無理だと考えていたが、たとえ生きて帰れなくとも、そんなことは大した問題ではないという結論に達したからです」とこたえてくれた。返すことばもなかった。四度目の来日をもう最後の来日と覚悟を決めていたのではないかと思ったものだった。
しかしその帰国から五ヶ月足らず、ジョンさんは黄泉の国に旅立ってしまった。発足以来のブンブンプロジェクトの会員でありながら、マーシャル諸島にはなかなか行けず、仕事にかこつけて、今年一月下旬から二週間現地に滞在し、被曝島民の暮らす島々などを回ることがやっと実現した。
ジョンさんの住むイバイ島をベースに、ジョンさんの人脈でいろいろな人たちに会うことができた。ジョンさん宅には一週間ぐらい通い続けた。迷惑がらず、その対応は実直そのもの。つい好意に甘えたものだった。
核汚染される前のロンゲラップを語るときのジョンさんの生き生きした表情が印象的だった。ロンゲラップ環礁の東北部へカヌーで乗り出し、マグロやカツオを追った日々を回想するときは目を輝かしていた。核実験が開始される前のジョンさんたちの暮らし、島に日本軍が進駐してきたころの話をもっと聞いておきたかった。
しかし生前のジョンさんから少しでも被曝以前の島の暮らしや被曝後の話を直接聞くことができたのは私にとってはためになった。私にとってジョンさんは黒沢明監督が映画化した「デルスウザーラ」その人と妙に重なり合う存在であるように思えてきた。被曝以前と被曝以後の島の歴史や暮らしを語れる、まさにその最後の語り部として。
被曝をめぐる問題に言及したときのことだった。「ロンゲラップへの帰島は喜べない。島にはまだバイ菌が残っているから」とジョンさんは力を込めて言った。私は「ジョンさん、バイ菌とは放射能のことか」と問うた。「バイ菌とは英語でいうレディエーションのことか」とさらに問いただすと、ジョンさんは「そうだ、そうだ」とこたえた。
戦前の日本の統治下、日本語教育を受けたジョンさんが「放射能」という訳語を知らなかったことに、少なからぬ衝撃を受けたものだった。「レディエーション」はバイ菌よりさらに恐ろしく、核大国が戦後、マーシャルに押しつけ植えつけていったことばだったのか、とふと思ったものである。
いまにして思えば、老骨にムチ打って来日したのは、もうそう長くは生きられないジョンさんにとって、ことしの「ビキニデー」は特別な意味があったにちがいない。ビキニデーの集会の行なわれた静岡県焼津市の同市文化センター。車椅子に乗ったまま核廃絶を願うメッセージを読み上げるジョンさんの姿がまざまざとよみがえってくる。
▼ジョン・アンジャインさんの プロフィール
1922年11月21日、ロンゲラップ環礁エニアェトック島で8男6女のうちの4男として生まれる。27年から3年間ヤルート島の日本公学校に通う。39年、島に駐留する日本海軍気象班の炊事係に。
47年、ミチュワさんと結婚、二人の間に男8人、女3人が生まれた。49年ロンゲラップ村長に就任(64年まで15年間)。
54年3月1日、ビキニ水爆実験でジョンさんら同島民86人が死の灰を浴び、被曝。
68年ロンゲラップからイバイ島に移住し、大工で生活を立てる。72年8月、原水禁世界大会に出席のため初来日。同年、アメリカで甲状腺手術。以後、太平洋の核の語り部として、アメリカや日本をたびたび訪問した。
04年3月、ビキニデーに参加するため来日(通算4回目)、7月20日午前9時、ハワイのストラブ病院で肺出血により死亡。
遺体は仮居住島のイバイに戻され、葬儀が行なわれた。
ジョン・アンジャインさんへ =追悼広告
(マーシャル・アイランズ・ジャーナル紙8月6日号、英訳・丸田康子)
長い間お疲れさまでした。日本時代、アメリカ時代、とくに1954年3月1日のビキニ水爆事件で被曝以降の50年間は苦労の連続でした。ロンゲラップ島民と世界の人々はあなたを尊敬していました。私たちブンブンプロジェクトの会員一同も同じ気持ちです。
再びあなたにお会いできないことは大変残念です。やすらかにお眠り下さることを心から念じています。
いつの日か、汚染のなくなったロンゲラップ環礁にたつあなたのお墓にお参り出来る日が来ることを願っています。
そして、核のない世界が来るよう、私たちも及ばずながら努力を続けたいと思います。
2004年8月1日
ブンブンプロジェクト
清水谷子・会員一同
編 集 後 記
●この夏、わたしたちはかけがえのない二人の友人を失った。魚住さんは最近軌道にのった沖縄物産流通「真南風」の仕事で多忙な日々を送り、たまに会うだけだったが「もう一度マーシャルに行きたい」とよく言っておられたのがいまも心に残る。
●海軍気象班員として戦争前にジョンさんと出会った古い友人である小宮茂雄さんは、「3月に日本にきたジョンさんとゆっくり話ができてよかった。カヌーや漁の話、歌を教わったこと、昔の話だけどとても懐かしかった」。二人が話したのは昔話だが、そこには核に破壊される以前の島々の豊かな自然と暮らしがあった。 (島田)
●今年の春、石垣島の白保の海で見たアオサンゴは圧巻だった。「魚が湧く海」と形容された昔の海の豊かさのままかどうかはわからないが、初めて見たアオサンゴ群落には感動した。魚住さんとじっくりお話をしたことはないが、海を愛し、島を愛し、自然に学ぶ姿勢は、魚住さんも、ジョンさんも、そしてブンブンプロジェクトに心を寄せる人々も同じなのだと思う。
●自然も人の心も破壊が進み、テロや戦争が現代の歴史を刻み続けている。お二人が目指していたことを静かに考えてみたい。(渡辺)
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