
第4回メンテ(8月)に
ボランティア大々募集
〜8月22日よりマジュロ島で。船を上架し、塗装やエンジン調整など
リィマンマン号の4回目のメンテナンス(整備)を今回はマーシャル諸島の首都マジュロ島で8月日から9月1日まで行なうことになりました。船を送ってからちょうど二年経ち、外装が汚れ、再塗装が必要ですが、これまで整備をしてきたイバイ島には船を吊り上げるクレーンも適当な斜面もなく、このため船をイバイ島から450キロ(東京ー名古屋間に相当)回航し、マジュロ島でクレーンで陸に揚げ(上架し)、ペンキ塗りとエンジン、電気系統の整備を行なう予定です。
太平洋の『真珠の首飾り』と称されるマジュロ島は近年都市化が著しく進んだとは言え、ヤシの緑も多く、さんご礁の海も美しい。 ロンゲラッフ村役場もマジュロ島にあり、マジュロ在住の島民の支援もありますが、ペンキ塗りには多数のボランティアが必要です。ぜひこの機会にマーシャルを訪れ、核の後遺症に苦しむ現地住民と交流すると共にさんご礁の素晴らしさも味わって下さい。
作業が早く終了すれば試験航海をかね自然のままのさんご礁と伝統的な生活が残るアルノ環礁(マジュロより約2時間半)に出かける予定。
なお、船を450キロ回航させるので、船の調子が悪ければイバイ島で作業する可能性があることもご承知おき下さい。この場合は、メジャト島訪問を実現させます。
この時期、航空運賃が高く、経費の宿泊費と食費の節減のため民家を借り上げ、自炊する計画を進めています。現在まで高校生を含め6名の参加が決まっていますが、あと5、6人の参加を望んでいます。
「第4回メンテスケジュール」
●日程
8月22日(日)成田発
20:55→グアム着01:30(23日)
到着後グアム空港内で仮眠。
23
日(月)グアム発08:20→マジュロ着18:45
24日(火)〜31日(火)
作業(8日間)
9月1日
(水)マジュロ発13:00→グアム着19:00
グアムホテル泊まり。
2日
(木)グアム発06:30→成田着09:10
●費用
往復航空運賃 119,340円
宿泊代 約45,000円(10泊、民宿)
食事・雑費 約20,000円(自炊体制)
![]()
〜沖縄からマーシャルへ
魚住 けい
私がマーシャルに行こうと思ったのは、たまたま、沖縄から水俣に行ってそこで前田哲男さんの『棄民の群島(時事通信社)』を読んだことがきっかけだった。第五福竜丸のことは知っていても、マーシャルの人々が戦後ずっと被曝で苦しんでいるということを私は想像しなかった。その痛みというか、想像しなかった自分というものを、とてもよくないなと思ったわけです。これはやはり行ってみなくちゃいけないなと。だけど、観光ではないし取材でもない。奄美大島に暮らしていた山田ナオミを誘って女がただもう行きたくて行った旅だった。
『棄民の群島』を読んで、どうしてマーシャルに行かなくちゃいけないかと思ったというのは、そこで行なわれた核実験が広島と長崎に落とされた原爆を大型化し、高性能にするための実験だったわけ。日本が唯一の被ばく国だというのは基本的に間違っている。ブラボー作戦という名前をつけられた水爆実験では珊瑚礁の島が三つも吹っ飛んだ。そのことを住民は何も知らされていない。なんらの避難処置もとられなかった。いってみれば人体実験、生体実験だったことがよく分かる。
マーシャルに行ったのは私が三五〜六歳(一九八三年夏)のときだった。いわば人生の折り返し地点で、そういう、核に閉じ込められた珊瑚礁の島々を訪れたということは非常に大きな意味を持つた。 単に自分の個人的な人生の折り返し地点という以上に、それを見てしまった者の責任というのは、その後の私の人生の立ち返っていく原点というか風景、そういうものだと思う。
マーシャルでの見聞から
イバイという島やクワジェリンという島へ行って、そこで見たり聞いたりしたこと。たとえばクワジェリンというところは米軍が直接統治している島で、当時は時間までワシントン時間。時間まで支配し奪っていた。そこには迎撃ミサイル発射基地もあって、島を追われた人たちがその隣の本当に小さな「太平洋のゲットー」と呼ばれていたイバイという島に住まざるを得ないようになっていた。
マーシャルは大家族制だか、米軍基地に働くたった一人の収入で家族全員が食べている。ヤシの緑もない。缶詰やガラス瓶、汚物など廃棄されたゴミの中で子どもたちがたくさんいて暮らしている。そういう意味では想像を絶する世界だった。
そして、マーシャルに船を送りたい、どうしても船を送りたいという風に思ったのは、ネルソン・アンジャインさんが、自分は船が欲しいと、私たちを見送って下さった時に言われた。船があれば、島々のコミュニケーションがとれるし、互いの島の被曝の状況が分かる。
私たちは具体的に何かをしに行こうと思って行ったわけじゃない。ただもう、そういう島があるということ、この目で見たいという思いで、それ以上のものは何もなかった。
そこにはやっぱり前史があって、一緒に行ったナオミはというのは奄美大島に入植して、そこで島人(しまんちゅ)としての暮らしをずっとしていた。魚を捕って畑を耕して、共同体の中で子どもを生み育てながら石油基地に反対する運動をしていた。私も復帰の前の年から沖縄に暮らしていて、やっぱり同じように石油備蓄基地に反対する運動をずっとしていた。「島と海と珊瑚礁」というのはいわば一つのキーワードにして暮らしていた。奄美のナオミも同じなじわけ。
それで私が水俣に行ってこの本を読んでナオミに電話したとき、「こういう本がある、これは大変だからいっぺん行ってみなくちゃいけない、一緒に行くか」と聞くと彼女はすぐイエスと言った。そういう、自分たちがそれぞれ抱えている問題があって、広島・長崎という人類共通の経験が私たち日本人にあって、そしてマーシャルに行くという、今振り返ってみるとそういう道筋がすでにあって私たち二人が行かせていただいたなあとという風に思う。
そこで見たものは、島の人たちの絶望。深い絶望、その中でも人はやはり生きなければならないから、生きる希望が欲しい。具体的な日々の生活の中には喜怒哀楽がある。そういうもの、島の表情というか。それがマーシャルから戻ってきてとにかく船を送りたいと発作的に思ったときに、思い返すマーシャルというのはだんだん彫りが深くなっていった。その表情が私たちの中で豊かになっていって、空間とか時間というものは消えてしまう。そういう日々の中で、船とか、島の環境調査などで何らかの役にたちたいなあという風に思い始めた。
女二人がそこまで行き着くには実に大変で、思いだけではなかなか実現できないんだけれども、でも、思いこそがエネルギーなの。思いがすべてのエネルギーの根源なのね。そのことがよくわかった。
ナオミは奄美で自分の生活、厳しい反対運動の中で生活を続けるという現実に戻って行ったし、私はそのすぐ後に石垣島の白保の珊瑚礁保護の運動に出会った。だから、すぐにマーシャルの支援という形には結果的にはならなかったけれども、でも今はブンブンプロジェクトを通して、もう一度マーシャルに戻ってきた。気持ちの上でも戻っていくことが出来た。そういう時間の流れがあった。
金武湾からマーシャルへ、そして白保へ
沖縄本島中部の金武湾で珊瑚礁を守る運動を十年位していた。私が海にたどり着いたときには、珊瑚礁は壊されていて、CTS(石油備蓄基地)のための埋め立ては既成事実だった。十年余りの住民運動の中で「海と大地と共同の力」という言葉が生まれた。その言葉に象徴される、また「海と大地と共同の力」のその内容を豊かにならしめるための思想的な営みというものを私たちはそれからずっと続けている。
マーシャルに行ったというのは、金武湾の経験がなければ絶対に発想しなかっただろうけど、同じ珊瑚礁でつながっている海で、島の人たちが暮らしている、そこに被爆の問題がある。私の中では「珊瑚礁の海」という一つのくくりかたがあった。白保も同じこと。やっぱり珊瑚礁の海でつながる、島々と人々の暮らし。視線としては、沖縄からマーシャルへ。
そして日本列島も二000メートルくらいボーリングすれば珊瑚が出てくる。日本列島の島伝いを宇宙から見たとき、それは花づなのように琉球孤に連なっている。列島と、潮の流れが創り出してきた神秘な力に対する畏敬の念というものを、ミクロネシア、沖縄の海の中に私は感じている。
反戦・反核、沖縄からのメッセージ
黒潮のことを沖縄の言葉で「綾潮(あやす)」という。波がいろんなものを綾なしていく。暮らしなり、文化なり、人々の往来や文物の往来なり、どこかの島からどこかの島にいろいろなものが流れ着く。人も物もそう。海なくしては人々の暮らしは成り立たない。そういう黒潮の力、それが「綾潮(あやす)黒潮(くろす)」。
さまざまな人々の協力があってブンブンプロジェクトはマーシャルへ船を一隻送ることができた。それを船の上にのせて、具体的な支援、島の人たちに喜んで貰えるというのが何よりうれしい。十六年前の想いが実った。被曝した島の人たちがこの船があることで生活がしやすくなった。病人が運べる。魚も捕れる。それから島と島の往来もできるというような、生活の中の具体的な喜びをつないでいくということ。これはもう、支援とか運動とかいうレベルの話でなくて、もっとこう、私たちが困っているときに助け合う、隣の人につい手を差し伸べてしまうというような。人間としての痛みを分け合う、そして喜びも分け合う、そういう普遍的な人間の営みの一つであるという風に思う。
神奈川事務局に全ての活動をお任せしていて、余りお手伝いできないことを心苦しく思う日々ですが、ブンブンプロジェクトの志は若い人たちに継承され、島の人々の心に届いていることを実感している。島の人々と、ブンブンプロジェクトに加わり御支援くださっている皆さまに心から感謝いたします。
(ブンブンプロジェクト京都事務局代表)
![]()
編 集 後 記
●会員の小島昌世さんが執筆された「ヒロシマは世界を結ぶ 核兵器廃絶に挑む」(ポプラ社)の出版記念パーティが東京・三鷹の「たべもの村」で6月日に開かれました。私は出席できなかったのですが(ごめんなさい)、盛況だったようです。
それにしても世界各地で民族紛争、銃撃戦、不審船騒動など争いごとが絶えません。過去の戦争の癒しや反省をする気持ちはどこへ行ってしまったのでしょうか。
日本ミクロネシア協会が「社団法人太平洋諸島地域研究所」という名称に変更されました。そこに働いているOさんは太平洋島嶼地域のニュースの集約を行っており、情報提供をしています。
それによると、アメリカ政府の公文書公開によって、1954年にビキニ環礁で行われた水爆実験の降廃物が、北太平洋の各島や米本土のテネシー州でも検出されていることが明らかになったそうです。マーシャル諸島ではアメリカ政府に対し、マーシャル諸島全域を被曝地区と認定し、これまで被爆地に指定されている4島以外の補償プログラムに加えるべきだと主張しています。
過去の戦争や核実験による被害はまだまだ尾を引いています。隠された被害もこれからもたくさん出てきそうです。
戦争は「最大の環境破壊」とも言われます。もちろん、人も心身ともに破壊されます。重い問題ですが、地道に考えていきたいと思います。
●今号から再生紙を使用することになりました。運動本体の展開に夢中になり、再生紙の利用まで気がまわりませんでした。増え続ける古紙、破壊の続く熱帯雨林。各号一部当たり一〜二円割高になりますがご理解下さいますよう。さらに、三鷹市の山田征さん(ヤドカリハウス)が行なっている「古雑誌を再生したトイレットペーパー」の使用も我が家で使い始めました。案内のパンフレットが神奈川事務局にあります。ご照会下さい。
●この五月、大阪のKテレビ局に同行し、島で戦死した兵士のご遺族と元兵士と一緒にミリ環礁を訪問した。米本土に対し最東端にあたるマーシャル諸島ミレ島は米軍の上陸こそなかったものの、島は爆撃によって徹底的に焼き払われ、現在も爆弾の穴だらけである。
島内を元兵士たちと歩いていた時、ある元兵士から日本軍による米兵捕虜処刑の話を聞いた。
約五OOO人の駐屯日本兵の戦死の半数は、栄養戦死と呼ばれた餓死であった。そんな中、六名の飛行士が搭乗した米軍機が環礁内に不時着し捕虜になった。数ヶ月後、六人の米兵は穴の前に正座させられ首を切られた。首を打ち落とされるその瞬間も彼らは真正面を見つめ、泣き事ひとつ言わず死んでいったという。
数千の日本兵と朝鮮人軍属が食料不足で餓死した島で、私は餓死した日本兵よりこの米兵の勇気と無惨な死を思って不覚にも涙が止まらなかった。戦争に道義もなにもあるものか、という意見もあるかも知れないが、人が人の道を忘れ始めた時戦争が起こるような気がしてならない。(島田興生)
ブンブンプロジェクトホームページへ戻る