大学改革をめぐる『人』と『システム』及び『学生の質』
教育環境研究所 渡辺幸重 Yukishige Watanabe
大学改革に関する情報が頻繁に流れ、大学の危機が週刊誌でも大きく取り上げられる時代になった。いまや大学は大衆監視の中にある。そのなかで大学は生き残りをかけて改革を進めている。
大学改革のメニューはすでに出そろった。あとは各大学が改革のための組織体制を固め、メニューと素材を厳選し、味付けをする段階である。はたして日本のいくつの大学が「個性が光り輝く大学」になりうるのだろうか。ここでは、シラバスだの、セメスター制だの、GPAだの、OA入試だの、といったメニューではなく、大学内部の『人』と『システム』及び学生の『質』というソフトウエアに関連して考えてみたい。
改革に必要な原理原則
全般的に私が感じるのは、『個性』以前の問題として、やって当たり前という改革にも着手できない(あるいは見かけだけで内実が伴わない)大学が多いことだ。何が問題なのだろうか。
いきなり結論めいたことになるが、私が感じている大学の問題は
一、原理原則がない
二、自主独立の気概がない
三、責任の所在が明らかでない
四、自信がない
という点である。
「原理原則がない」というのは日本社会全体によく言われる。タテマエとホンネ、理想と現実を二律背反的に取り上げて「ホンネで行こう」「現実だから仕方がない」となりがちで、ひどいときには法律で決めても運用で先送りにするという社会だから大学でもそうだというのは無理もないことかもしれない。しかし、タテマエや理想を持たない大学改革は存在しない。タテマエや理想に向かって現実的な努力を続けない大学はつぶれるだろう。「これだけは譲らない」とすべての構成員が認める原理原則がないとダイナミックな改革を進めようとする組織はもたない。原理原則と言っても別に建学の精神とかの高邁な思想だけを言っているのではない。むしろ、「決めたことは守る」といった法治主義のようなものである。
教職員の評価や組織としての意志決定が決められたシステムに拠っていない、ということが多々あった場合、その時点では社会的に評価される優れた内容であったとしても必ず反動があり、その成果は蓄積されない。最低限のルールはどんなことがあっても守られるという共通認識があってはじめて教職員は安心して改革に参加し、成果が文化として蓄積されることになるからだ。
なんと初歩的なことを大げさに言うのだ、と読者は思うだろうが、大学改革が進められているなかで、あまりにも「あの上司は自分のお気に入りの部下には甘い」「あの部署の予算が認められて自分のところが認められないのはおかしい」などという声を多く聞く。初めは意気込んで改革に参加したのにやる気をなくして腐っている理由はこんなものだ。日常的な理不尽の積み重ねがやる気をなくし、ぎすぎすした人間関係が蔓延して改革の足を引っ張るケースが多いのだと思う。それは原理原則がないことに起因しているのではないだろうか。特に、理事長や学長レベルのトップ層に対して強調しておきたい。
責任の所在を明らかにし、評価を
二番目の「自主独立の気概がない」というのは、大学改革が大学自身の手によって始まったのではなく、文部省の方針という「お上の意志」によること、受験生の減少などの社会現象から危機感が出ていることを挙げれば十分であろう。さらに、他者見合い・画一的な改革の動きを見ればその感を強くせざるを得ない。
三つ目の「責任の所在が明らかでない」は、大学改革を推進する上でかなり重要な意味を持つ。改革は大学の内部だけでなく、社会に対してもわかりやすくなければならず、そのためには誰がどのような権限と責任で何をめざしていつまでにやろうとしているのかを内外に示さなければならないからだ。
その一つとしてまず、学長や学部長が就任するときに具体的な公約をすることを薦めたい。当然その結果責任は学長や学部長が負うことになり、成果が上がらなければスタッフ共々辞任することになる。
また、教職員の発言や行動については、公的な立場あるいは公的な場における言動とその結果において責任があり、評価の対象になるという原則を打ち立てるべきだ、と考える。その他は一切不問とし(もちろん法律違反については別)、自由な議論や意欲的な提言、試行錯誤を広く保障するのである。
難しいのは、教育の成果に対する評価と責任の所在である。これまで大学の教育レベルの低さによる弊害は、大学生が外国語をしゃべれないという程度にしか指摘されなかった。それは、社会が大学に対して寛容だったからであり、悪いのは主体的に学習すべき学生の方で、大学の先生や大学の教育システムに間違いはないとされていたからだ。企業も就職してから教育すればよいという考えだった。しかし、企業内教育の余裕がなくなり、大学の教育力が国際的に比較されるようになって様相が変わってきた。受験生や高校教員も大学の教育力を大学選択の材料の一つにしたいと考えている。そこで、大学は学生の授業評価や教員相互の評価、学外の第三者評価などを行い、授業改善に努めなければならなくなった。教育の成果は長期間のデータで見ないとわからないという声は強いものの、教員の教育に対する貢献度を何らかの形で評価し、査定に使う方向に進むだろう。
情報公開と第三者評価の導入
四番目に「大学は自信を持っていない」という指摘をしたい。大学の先生は一般に自分の授業を公開したがらない。学生の授業評価さえ隠そうとする。また、大学の財務状況は健全なのかどうかさっぱりわからない。一般企業と比べると闇の中だ。どれもこれも外から見ると、情報公開を怖がっているように見える。一方、文部省は財務状況を含めて情報公開を進めるよう求めており、その状況を調査しようとしている。受験生が大学を選択するときには公開情報に頼るようになる。公開しない大学は必然的に評価が下がるから、大学は好むと好まざるとに拘わらず、自信があるなしに拘わらず、公開を迫られることになるだろう。
同時に公開されたデータの信頼性が問われることになる。その場合のキーワードは「外部評価」「第三者評価」である。自己点検・評価が普及したものの内容が形式的・画一的だとの批判が聞かれる。要するにわかりにくく、本当に知りたいことが書かれていないのだ。そこで、自己点検・評価を充実させると同時に他者評価すなわち大学と利害関係を持たない第三者による評価が必要になるだろう。また、監査に外部の専門家を入れることなど客観性を導入することも説得力を高めることになる。他にも思い切った外部人材の登用が内部の緊張感を生み、複眼的な視点を持つことが可能だろう。開かれた大学≠ヨの近道ともなるはずだ。
関連するが、改革を進める場合、組織改革や人事異動を伴う。抵抗が大きいのはこういうときだが、特に組織改革に当たって、既得権益にどっぷり浸かっている当事者に決定権を持たせると、名称だけの変更に終わるなど形の上だけの改革になりかねない。それでも退職者が出るのを待って少しずつ人材を補充するなどの息の長い作戦も考えられるが、本当に改革を断行するには、既得権益を持っている者は討論には参加しても決定権を持たないとするべきだろう。
既得権益を持った者に決定権を持たせないのは人を重視しない機械的なやり方だという批判があるかもしれない。果たしてそうだろうか。人は自分のこととなるとどうしても自己保身的に振る舞う。たとえば、学部や学科の編成が大きく変わるとき、ある大学の教員にとっては担当する専門領域が存在しなくなるということもあり得る。教員は自分の身を守ろうと奔走するだろう。だが、それが本人にとっても学生にとっても幸せだろうか。それよりも新しい研究領域にチャレンジするか、あるいはこれまでの学問的蓄積が生かせる他大学や企業で生路を見出す方がよいと思う。ただし、リストラを進める企業が再就職のための支援をするように、大学も転籍や転出、転業を望む教職員への支援をすることは明るい改革を進める上で欠かせない条件である。
学生を指示待ち人間≠ゥら脱却させるために
大学の真の意味での主人公は学生である。大学経営の大半は学生納付金に支えられており、受験生に選ばれない大学はいずれ閉鎖に追い込まれる。そこで大学は、学生の満足度を高めるべく、学生の興味・関心を引くような改革を進めている。しかし、学生の学力低下が問題にされており、指示待ち人間∞マニュアル人間≠セという批判が強く存在する。学生の『質』の問題は大学改革を推進する立場からはどのように考えたらよいのだろうか。
私はかつて新聞記者として教育問題を取材し、塾・予備校で小学生から大学受験生まで教えたことがある。20年ほど前にも学力低下の議論があったことを思い出すが、ある高校の先生は毎年の学力低下はすさまじいものだと強調した。多くの塾では、子どもたちに実にきめ細かなプリントを与え、「知らず知らずのうちに実力が付く」という指導をしていた。子どもたちは目の前にプリントが与えられれば一生懸命やるが、それが終わっても次のプリントを要求しようとはせず、与えられるのを待つだけという姿勢になりがちなので「こういうやり方では子どもたちをだめにしてしまうのでは」という話をしたこともある。数学の授業で別解を解説すると、中学生は「学校のテストで書けばいい答え方だけでいい」「そんなにいくつも覚えきれない」と訴えた。
私は、一斉授業という形式、1年間のノルマがあるやり方に限界を感じた。しかし、そういう状況はさらに進み、現代の若者は指示待ち人間∞マニュアル人間≠ニ呼ばれるようになった。
高校以下では学力低下の問題はかなり以前から取り上げられていた。大学がそれに無頓着でいられたのは大学における教育がそれほど期待されていなかったからであり、大学が鈍感だったからである。
では、なぜ高校以下の段階で学力低下を防げなかったのだろうか。私が思うに管理主義で問題を克服しようとしたからであり、前述した塾や予備校での指導に子どもの学力アップを頼りながらも日陰の存在として考えの外に置いたからである。
学校では問題を解決しようとすればするほど校長・教頭への報告書作成が増え、研修が増えていった。その分、教員が子どもと接する機会は減った。私の知人である小学校教員が頻繁に地域ごとの保護者会を開いたところ、管理職と組合の双方からクレームがついた。「親から他の先生はどうしてやってくれないの、と言われたらどうするんだ」と。子どものためになり、親が喜ぶことでもやめさせる管理主義が存在していた。
このことから大学が得るべき教訓は、改革といっても調査や報告書を上に提出したり、外に発表することに多くのエネルギーをさき、教育・研究の現場における実践がおろそかになったら失敗するということである。
もう一つは、教育の中身である。いくら学生に主体性な学習態度を身につけさせ、問題発見・問題解決型の学習をさせようとしても、放任では教育効果は期待できない。やはり、補習教育や選択授業の拡大など学生の実状に合わせたカリキュラム改革は必要なのだ。ただし、塾や予備校のように1年間のノルマを課し、プリント学習のようなきめ細かさだけでは大学の教育とは言えないだろう。大学では、選択できる1つの学習テーマにじっくり学生が取り組み、達成感が得られるまで考え、苦しみ、まとめる学習が必要だ。きめ細かな指導ではあるけれども、学生が自律的に学習できるように導くシステムが大学に求められている。
大学の命運を分ける新課程入試
高校では二〇〇三年度から新学習指導要領が実施に移される。二〇〇六年度から新課程入試になるのだが、これは大学の命運を賭ける大事件となるだろう。今年度入試でも志願者数の減少をめぐって勝ち組と負け組に分かれたなどという記事が見られたが、今はマスコミも受験生もこれまでの偏差値ランキングにとらわれている状態での話であり、これから大学入試状況は一転二転し、十分に敗者復生もあり得る。
私は最終的には新課程入試の対応で決着がつくと見ている。なぜならば、新課程入試の対応は大学がどのような学生を求め、どのような教育をしようとしているか、が現れるものであり、どのくらい真剣に対応してきたか、が問われるからである。教学改革と連動して今すぐに検討を開始しなければならない最大の課題なのである。
新学習指導要領に対しては学力低下をさらに進行させるものだ、という指摘もある。しかし、大学側としてもこれまでの高校以下の教育に対して知識偏重≠批判し、学生には考える力≠ェなくなった、と指摘してきたのだから、その一つの回答として提示された今回の学習指導要領改訂に対しては入試改革・教学改革をもってそれに応えなければならない。
新学習指導要領をみると、かなり大きな変更があることがわかる。必修科目が少なくなり、複数の科目から選択する選択必修かまったくの選択というのがほとんどだ。これだけみても、入試で準備する科目が増え、選択パターンが複雑になることがわかる。
選択必修の「数学基礎」の内容は数学史や数学が社会に果たす役割などを学ぶというもので、数学そのものを学ぶわけではない。「理科基礎」も同様であり、これらの科目を入試でどうあつかうのか、あるいは無視するのか、も大きな問題である。新設教科の「情報」への対応も新たに必要だ。さらに、学校が独自に設定できる科目への対応となると、従来の発想では太刀打ちできない。
そこで、新しい発想が大学入試に必要になる。高校の科目に縛られない総合問題やAO入試、意欲度テストなどが開発されるかもしれない。あるいは、複数科目を統合したボーダレス問題や大学が独自に設定する科目≠ェ出現するかもしれない。私は、ここで思い切った入試をやり、個性を出してもらいたいと願っている。
=「桜門春秋」99年夏季号(日本大学発行)に掲載
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