「多競争時代」の大学と受験産業(その2)
“偏差値崩壊”と大学入試
「偏差値社会」って何?
教育問題というと必ず出てくるフレーズ−−「偏差値輪切りの弊害」「偏差値社会からの脱却」。もう説明しなくても誰もがわかっているが如く使われているが、よく聞くと偏差値社会の定義や意味が人によってだいぶ違う。「受験勉強偏重」を指摘している人もいるし、「競争過多・利己主義的社会」を指している人もいるようだ。「高校の合格実績主義一辺倒」を批判する人、「点数主義」が悪いという人、「単一能力の評価」「カリキュラムの硬直化」、さらには「親の過干渉」まで、説明もなく“偏差値社会の弊害”という言葉でくくられている。
それから先の議論は、というと、人によって「大学全入」もあるし、「悪平等を廃し、エリート教育を」と言う人もいる。「選抜方法の多様化・評価の多元化」「教育制度の複線化」もあれば「人生設計の想像力をつけさせる」「子どもの自律性を伸ばす」「ヒューマニズム」というものもあり、「父権の復権」まで出てくる。それぞれ大事なテーマではあるが、出発点の「偏差値社会」の検証をしないことが混乱の基になっているような気がする。
そこで今回は「偏差値」および「偏差値社会」について考えてみよう。しかし、社会問題、教育問題まで行くには道のりが遠い。とりあえずは“偏差値崩壊”が進んでいるという大学入試の検証をしたい。偏差値崩壊後も上の議論に出てきた社会問題は残るだろう。それも偏差値社会の弊害というのかどうか。偏差値崩壊後を想定すれば問題が比較的シンプルに浮かび上がってくるのではないか、というのが私の目論見である。
統計学としての偏差値
偏差値は統計学上の単なる数値である。しかし、社会で使われている偏差値という言葉の意味は「偏差値社会を支えるもろもろの数値」であり、センター試験の得点も含まれるし、大学及び大学生の評価にも偏差値の形をして現れる。ここではまず、単純に統計学としての偏差値のおさらいから始めよう。
偏差値とは、ある集団を構成する個人(別に人間でなくてもよいのだが)が持つ数値(得点など)を相対的な数値に変換するもので、数値の分布を平均を50として正規分布にあてはめる。ある試験結果を偏差値処理したとして素点のままの分布が正規分布になっていたとすると、上位から2.3%の順位の人は偏差値70、15.9%は60、30.9%は55、50.0%は50となる。偏差値が40から60の間に入る人は全体の68.3%であり、30から70の間に広げると95.4%の人が含まれる。
しかし、得点分布は正規分布でないのが普通だ。それを無理やり正規分布に当てはめるのだからずれが起き、その程度によっては偏差値そのものの信頼性がなくなる。試験で平均点の人がいつも順位が真ん中というわけではない。偏差値50の人は「平均点の人」とは言えるが「順位が真ん中の人」とは必ずしも言えない。得点が0点でも偏差値が30を超えたり、満点をとっても70以下だったりすることもある。偏差値はあくまでも仮想の相対的位置を表す数値なのだ。
模擬試験では個人成績の科目ごとに偏差値をつけ、さらに大学の学部・学科など入試の募集単位ごとに合格可能性を偏差値を基に判定する。そのためにはすべての大学・学部・学科の入試における合格難易度を偏差値で表し、ランキング付けをすることが必要だ。偏差値が批判されるとき多くの場合、このランキング付けがターゲットにされるようだ。
高校や予備校で合格可能性の判断材料として偏差値を使うのは受験生の出願方針を決めるためだ。よりもっともらしい予測として志望大学の可能性は「普通に実力を発揮すれば合格できるか」のか「よっぽどがんばらないと合格は難しい」のかを判断し、出願するのか、出願するとすれば他にどのような大学を併願すればよいか、という方針を固める。そういう判断材料がないと、受験生は強気になっては「だめでも受けます」と言い、すぐに弱気になっては「本当に大丈夫でしょうか」と言ってくる。センター試験で予想よりも悪い点をとろうものなら混乱の極みに達するから、そういうときにも大学のランキングと模試の成績によって冷静になれるのだ(仮想の行動の拠り所であるから冷静になった“つもり”というのが正確だろう。精神安定剤みたいなものだ)。ここでの問題点は、合格可能性が低いことを理由に受験したい大学を無理やり諦めさせられることだろう。これは偏差値の使い方の問題であるが、しかし、偏差値には元々それほどの力はない。
その偏差値および合格可能性(大学ランキング)が信頼性を持つにはどのような条件が必要だろうか。いくつか列挙してみる。
1.母集団が安定していること
偏差値はある集団内の相対的位置を表すから、模試の回ごとに集団の質と量が異なるとたとえ同じ程度の実力を発揮しても偏差値が大きくずれる。模試業者によっても実施時期によっても集団は異なるのだから単純に偏差値の比較はできない。
2.問題が適当であること
問題のレベル・量によって得点分布は変化する。なるべく正規分布に近い方がよい。また、出題内容が大学が要求する学力をどの程度反映する内容か、もポイントの一つ。
3.大学の合格可能性予測(ボーダー偏差値)が実際の入試に近いこと
模試の際の合格可能性判定は、大学・学部・学科ごとに決められた合否ボーダー偏差値(難易度)によって行うが、これは前年度受験者の合否追跡調査結果を基にし、さらに志望大学データなどによって次の入試動向を予測している。従って、基本的には常に1年遅れの動向になってしまう。実際の入試では隔年現象といって受験生は前年度高かった倍率のところを敬遠する傾向があるのでそれでははずれるケースが多く、多少の調整はするのだが、影響力の大きい模試で「易しくなる」とアナウンスすると本番では志望者が集まって予測通りにならない場合もある。
「偏差値崩壊」が進行
受験人口の急減期に入って大学入試におけるバブルがはじけると、偏差値への信頼性の条件が崩れてくる。最大の問題は大学の難易偏差値が決められなくなるということである。前述したようにボーダーは前年度受験者の合否追跡調査結果を基にして決めるが、入試が易しくなってくると不合格者データが激減する。一般的な大学をモデル化して合否分布を図示してみた。(ここでは図は省略してあります)
<図1>がバブル時代で、不合格者は合格者の数倍いたから合否ボーダーは合否が重なる範囲に引くことができた。<図2>は最近の時期のもので、不合格者が減少し、ボーダーが曖昧になってくる。合格者も上位大学に取られるので下位層に移行、幅も広がっている。<図3>はまもなく訪れるであろう全入時代のもので、不合格者はほとんどいない。合格可能性は100%に近くなるのだからボーダーラインは引けない。
中堅大学の合格者だけの分布をモデル化したものを示したのが<図A><図B>にある。バブル時代は合格者の下限が比較的はっきりしているが、全入時代になると上限がはっきりし、下限は曖昧になる。では、最難関大学はどうだろうか。全入時代になっても競争は残り、不合格者集団も存在する。だが、東京大学のセンター試験ボーダーを見たらわかるように最難関大学になればなるほど受験生の学力差は小さい。しかも、全入時代になれば苦労してでも難関大学に、という受験生は減るだろう。最難関大学から中堅下位大学までの合格者分布をモデル化したものを<図A><図B>に示したが、その変化がわかるだろうか。全体の集団の中の偏差値で表すと最難関大学の受験者集団の偏差値はわずかな差しか現れない。競争意識のある集団だけで偏差値を取るとなると1,2点の得点差を偏差値では大きな差として表現することになるが、合格可能性を表すには意味のない差となる。従って、最難関大学でも意味のある合否の境界を偏差値によって出すのは困難になるだろう。
その結果、大学の合格可能性の基となる偏差値は意味を失う。「偏差値崩壊」の時代の到来だ。すでに、今でも高校や予備校・塾の先生から「これまで不合格になった学力層の生徒が難関大学に入るようになったが、入ってからついていけるだろうか」「名前と受験番号しか書けない生徒が合格した」という声が出ている。すでに偏差値崩壊は始まっている。
●合否分布モデル ●合格者分布モデル
※略
3極化する大学及び大学入試
では、偏差値崩壊後の大学及び大学入試はどうなるのだろうか。それに関して興味深いレポートがある。国立大学協会第2常置委員会・入試将来ビジョン検討小委員会から今年3月に発表された報告書「大学入学者選抜の改善に向けて」の中で、ある委員がアメリカの大学の例を引いて次のような内容の記述をしている。
<アメリカでは大学が大衆化した結果、4年制大学の入試の型が「競争選抜制」「資格選抜制」「開放入学制」の3つに分かれ、その比率は10〜15%、70%〜75%、10〜15%である。競争選抜制の大学では受験競争が残り、資格選抜制の大学では大学側が設定した一定の入学基準をクリアーさえすれば入学できる。開放入学制の大学は、高校を卒業だけを資格として入学を許可される。>
報告書では、日本の大学もアメリカのように3極化の道をたどれば、「競争選抜制の大学は60〜90校になる」という。そして「資格選抜制、開放入学制にあたるはずの450〜500の大学群では選抜よりも教育水準の維持が入学の重要な要素となる」と指摘している。
偏差値崩壊後も大学のランキングは残るだろう。それは大学の雰囲気、研究力の差、教育力の差、地域への貢献度、就職の実績というようにさまざまな角度からの多種多様なランキングとなるだろう。入試で言えば、受験者層の平均学力でランキングが表されるかもしれない。その意味で偏差値は残る可能性もある。あるいは到達度評価みたいな絶対評価が物差しになるかもしれない。
高校や予備校・塾の進学実績は、上の例で行けば競争選抜制の数十校の大学への合格者数で語られることになるだろう。そして受験産業の多くは大学入学後に備えた補習教育、あるいは大学の校風・教育に合わせた準備教育に移行せざるを得ないだろう。もちろん、大学生の補習教育・サポート教育・カウンセリングも大きなマーケットとなると思われる。
では、冒頭に述べた多くの「偏差値社会の弊害」はどうなるだろうか。そのほとんどは偏差値崩壊後も残ることに気がつくはずである。なぜなら、その多くは、社会全体が持つ問題の反映だからである。「偏差値」「偏差値社会」「偏差値社会の弊害」はそれぞれ分けて(あるいはちゃんと定義づけて)議論すべきである。今のような一緒くたの議論だと、エリート教育推進論者と反対論者でさえ同じように見える。この人たちは、果たして競争選抜型の大学に見られるエリート教育をどのように考えているのだろうか。では、このままの状態で推移したとして、大衆化した大学の中で若者の自主性・自律性は育つのだろうか。「生きる力」は、自己教育力は、問題発見・問題解決の力は?−−
大学に限って言えば、もっとも大きな問題は国大協の報告書にあるように「大学の教育力」である。大学が独自の教育方針を掲げ、社会に対してその存在価値を訴えなければ受験生も大学を選択する力をつけることはできない。受験産業だって方向性を見失ってしまう。だが、日本の大学の多くは情勢待ちのように見える。政治も、経済も、教育も、みんな一緒に転がり落ちた、とならなければいいのだが...。
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