多競争時代の中の大学と受験産業(その3)
 
大衆化が招く大学と受験産業の変貌

 

 

アメリカの大学では、研究大学と教養カレッジが中心

 
大学が大衆化し、全入時代になったとき、大学の内容や受験産業の業態はどのようになるのだろうか。
 前回、大学入試から見た大学の分類として、「競争選抜制」「資格選抜制」「開放入学制」の3つを挙げた。これはアメリカの「人口移動・入学基準・入学機会の公平さ−−入学者選考の課題」(1986年)という調査報告書にあるもので、江原武一・京大教授はこれを「競争入学制(コンペティティブ)」「基準内全入制(セレクティブ)」「開放入学制(オープン・ドア)」と訳している(『大学のアメリカ・モデル』玉川大学出版部、1994年)。

 また、江原氏は、アメリカの大学を「研究大学」「大学院大学」「総合大学」「教養カレッジ」「2年制カレッジ」の5つに分類、それぞれ在籍する学生数の割合を、18.0%、9.9%、26.9%、4.7%、36.7%と紹介している。研究大学と大学院大学は博士課程の大学院を持ち、研究大学の方が大学院大学よりも評価は高い。総合大学は修士課程を持ち、教養カレッジは教養教育が中心の学部教育のみを行う。大学の機能として「教育」「研究」「社会サービス」があるが、おおまかにいうと研究大学と大学院大学は研究重視、他は教育重視で、社会サービスについては2年制カレッジと総合大学が中心的な使命と位置づけている。

 大学の序列は全体として、研究大学、教養カレッジ、大学院大学、総合大学、2年制カレッジの順になっている。ただし、研究面だけに限ると、研究大学、大学院大学、総合大学、教養カレッジ、2年制カレッジの順になる。すなわち、教養カレッジは教育の面で研究大学より高い評価を受けており、アメリカの大学には研究大学と教養カレッジの2つの峰があると江原氏は説明している。

日本の大学はどう変わるか

 
では、日本の大学はどうだろうか。文部省の大学院生20万人計画に乗って各大学は大学院の拡充を進めており、大学院を持たないと生き残りが図れないと焦る大学の姿が見える。しかし、大学院重点化は東大や京大など主要国立大学で突出的に進んでおり、他の大学が追随するのは並大抵のことではない。研究大学や大学院大学に相当するのは主要国立大学と一部の私立大学のみで、他は教養教育を中心とした大学になるだろう。
 私なりにもう少し細かく分類したものを紹介しよう。日本の大学の現状から将来を予測して内容分類をすると、次のようになると考えている。

(1) 研究型(A.研究者養成型、B.研究プロジェクト型)
 大学や研究機関、企業の研究所などの学者・研究リーダーを養成する。教育よりも研究を重視、国や企業などから研究費をもらって研究したり、特許を管理し、製品化するなどの企業活動も行う。産学協同型、社会提言型などの分類もできるだろう。

(2) 就職エリート型(A.就職エリート養成型、B.資格エリート養成型、C.国際人エリート養成型)
 企業や団体・組織におけるリーダーとしてのエリートを養成する大学。就職エリートには高級官僚が、資格エリートには司法試験合格者や医師が、国際人エリートには国連職員などが含まれる。

(3) 実務型(A.経営者養成型、B.起業人養成型、C.資格取得型、D.技能修得型、E.一般職業人養成型、F.国際人養成型)
 
 企業のトップを目指す者、ニュービジネスを起こす者、技能を身につけ、専門職を目指す者、一般実務を身につけ、教養ある職業人、国際的に活躍するビジネスマンなどを養成する。

(4) 教養型(A.進学準備型、B.留学準備型、C.一般教養人養成型、D.生涯学習型)
 進学準備型は、大学院への進学(短大は3年次編入)を目的とする。生涯学習型は社会人の比率が高い学部や社会人中心の通信教育・公開学部など。生涯学習をメインとする社会サービス大学の出現もあるかもしれない。

(5) 芸術・スポーツ型
 美術や音楽、体育、健康科学などの分野の選手や指導者、研究者を養成する。実技型と研究型に分かれる。

(6) レジャーランド型
 内容的には(3)または(4)に近いと思われるが、学生に学問研究や技能修得の意識がほとんどなく、大学側はキャンパスの快適さで対応。若者の失業率を下げる働きを持つ。

大学の評価と改革努力の1断面
 
 

 具体的に大学がどのようなことで評価されるようになるのだろうか。また大学はどう努力しなければならないのだろうか。大学・学部の型にもよるがとりあえず、思いつくままに挙げてみる。

 (3)の実務型の大学では、資格や技能を身につけさせるためにダブルスクールを学内に準備できるかどうか、ベンチャーに挑む人材を育てるために技術やアイデア、資金、人材などの面でサポート体制ができるかどうか、などが課題になるだろう。一部の大学は企業に近い形態になり、学生は着物学校や電算学校がそうであるように生産者にもなる。多くの大学で評価の対象にされるであろう就職実績では単純な就職者数だけではなく、人材の質の評価が強まるだろう。たとえば、芸術系の大学では、芸術家を目指すなら生活は気にしない、というだけではすまない。もちろん、コンピュータグラフィックやデジタル映画など新規分野への参入も図らなければならないが、音楽教室や絵画教室の指導者としての組織作り、新しい素材の開発などきめ細かに卒業生の職場創造を進めるといったことも必要だろう。また、就職以外の要因、たとえば大学院進学実績、海外留学実績、起業実績、社会的露出度、地域への貢献度など大学の個性に見合った多様な評価が出てくるかもしれない。
 (1)以外の大学でもっとも重視される教育力はどの程度評価されるだろうか。補習教育、学生との親密度、サークル活動、社会人の教育力などによって大学に愛着を持たせ、活性化させる総合的な体制作りが必要だろう。卒業生を組織化し、リニューアル教育をすることも重要である。
 大学の教育力の重要な一環として導入が進んでいるインターンシップ制度への対応も重要である。その際、大企業とインターシップ契約を結ぶことが容易な大学とそうでない大学が出てくる。そのままでは現在の大学序列が温存されるだけで下位大学は淘汰されてしまう。そこで、地域に密着したつきあいをし、バイト程度の仕事でも地域社会の見直しや市場調査などをからめたプログラムがあれば十分な教育効果が期待できる。大学の内外で自らボランティア活動を起こすとか、NPO活動をすることもいいかもしれない。大学のねらいが就職活動なら学生個々人がねらいを定めた企業に大学自身が集中的にアタックしなければならないだろうし、卒業研究を兼ねたインターンシップなら海外の企業や研究施設との折衝も必要だろう。大学がいかにきめ細かに学生の教育システムを組むかが問われる時代になる。
 大学の経営から考えれば、早く大学・学部の性格づけを行い、個性を主張した方がよい。アメリカの場合、大学にも市場原理が働いており、ポスト大衆化の時代には多様化・個性化が進んだという。それが学生を集める決め手であり、言い換えれば個性がなければつぶれるということでもある。

職業をいつでも決められる柔らかい教育システムを

 
次に、まったく異なる立場から大学教育を考えてみたい。いまの子どもたちになにが一番欠けているのだろうか、教育はそれにどう対応できるだろうか、という視点である。
 子供の問題の一つは、人間関係の単純化である。昔は兄弟も多かったし、地域では他の家とのつきあいもあり、世話好きなおじさんも関わっていた。複雑な人間関係の中で、人間性も育ち、情緒も安定していた。「ちょっとしたことで切れる」「あんなことで人を殺そうと考えるなんて」ということはそう多くはなかったように思う。
 そこで必要なのは、擬似兄弟、擬似失敗体験、擬似葛藤、すなわち複雑で安定した人間関係の創出である。現状が、高校まで無味乾燥な経験しかしてきていないのなら大学を擬似ムラ社会にしなければ社会性のある人材を世に送り出すことはできない。大学の教育力にそういう視点があれば偏差値輪切りによって入学してきた意欲に欠ける学生でも磨き上げることが可能だと思う。大学側は、人間が生活する場として総合的で多様で自律的なキャンパス生活を用意する必要がある。特に女子大学や単科大学は単純な人間関係の場になりやすいので他大学や地域との連携が重要だ。
 子供は、いまの社会では初めからレールが敷かれてあって、まわりの人間に追い立てられてそこを一生懸命歩き続けていると感じているのかもしれない。いくつもの人生コースが当たり前のようにあって、気楽に選べてやり直しや行き来もできるという社会システムが必要だと私は考える。大学進学だけで考えてみても、将来の職業につながる文理分けは多くの高校で1年生の時、国公立と私立志望者の分離は2年生の時、大学・学部は大学出願の時に決めなければならない。大学入学後の転部転科は簡単にはできない。これだけでも硬直化した教育システムであることがわかる。
 関正夫著『21世紀の大学像』(玉川大学出版部、1995年)には、大学の大衆化による変化について「マーチン・トロウというアメリカの社会学者は、高学歴社会になると ボランタリー・スチューデント(不本意就学者)が増大すると論じている」「イスラエルの科学的社会学者ジョセフ・ベン=デービッドは、日本以上に専門教育を重視する傾向が強いヨーロッパの大学においてさえも、1970年代以降、ジェネラル・スチューデント(職業目標とか専攻をなかなか決められない学生)が増えていると指摘している」と紹介している。日本の大学でもすでに不本意入学が問題化されているが、大学の大衆化によって将来の職業とそれにつながる専門を決められない学生は今後ますます増えるだろう。同時に、早めに希望する職業を決めている学生もいるわけで、頭と体が柔らかいうちにやっておいた方がいい分野もある。この両方の学生に対応できる多様な教育システムがいい。
 高校改革を見ると、単位制高校や総合科の設置が進んでいる。一方、大学では、学部教育の一般教育化(くさび型カリキュラムといって専門教育を1年次からやるというキャッチフレーズが多いが、それは専門教育への動機付け程度の位置づけでしかない。実際は4年間の学部教育では専門分野の入口に立つくらいまでしか行けない)が進み、大学院での専門教育の充実(実は、大学の大衆化による大学生の基礎学力低下、教養教育の欠如、専門教育の高度化などによって専門教育を後回しにしなければいけなくなった)が図られている。すなわち、教育の弾力化・学際化・高年齢化が進み、専門の決定は必ずしも早くやらなければならないことではない。
 そこで、職業(専門)はいつ、どの段階で決めても対応できる教育システムを提案したい。職業感の教育は早めにやるが、職業につながるコースへの進学は早く決められる人は早く、遅い人は遅く、でよい。図ではわかりやすくするために、職業人養成コースと研究者養成コースという概念で分け、職業人の方では高校の職業科も、大学の工学部や経営学部、法学部も専門学校という名称にした。その上に、上級専門学校としてプロフェッショナルスクールを置いた。まぎらわしいが現状の専門学校を大幅に拡大し、大学・大学院の専門教育を移してドイツのマイスター制度のように権威付けしたと考えてもらえばいいだろう。
 中学卒業時に特定の職業を目指す人は高校レベルの専門学校(高校の職業科)に進学、そうでない人は総合科、単位制高校、普通科に進学する。高校卒業時に職業選択をした人は大学レベルの専門学校(専門学部)に進学、そうでない人は教養大学(リベラルアーツ)に進学する。そして、大学卒業時に専門職を選んだ人は大学院レベルの上級専門学校(プロフェッショナルスクール)に進学するのだ。研究職養成の大学院には、教養大学からでも専門学校からでも進学できる。それぞれの壁は低く、流動性は高いのでやり直すことも、社会人になってから戻ることも気軽にできるようになっている。

【図1】柔軟な教育システム(提言)
 

※省略

浪人マーケットは5分の1に縮小

 
これまで受験産業の変化はいつも学校教育の後追いの結果だった。仕方のない面もあるが、それが現在の行き詰まりを招いている。では今後、受験産業の形態はどう変わるだろうか。

 大学が前述した(1)〜(5)の類型に変化したとき、研究型(競争選抜型)の大学をめざす受験生は予備校や塾に通い、不合格になれば浪人もするだろう。しかし、現在よりも受験競争に加担する絶対数はかなり減少する。いわゆる「全入時代」に入る2009年度の入学定員は約68万人。おおまかにいってその20%程度の約14万人が競争の対象とすれば競争率1.5倍として約7万人が不合格となる。実際に浪人するのは全国で5万人程度ということになるだろう。これは現在の5分の1のレベルにまで浪人マーケットが縮むということだ。それを集め、経営を維持できる予備校を考えると、札幌、仙台、東京、名古屋、京都、広島、福岡にそれぞれ1校あれば十分だろう。浪人までする受験生はめざす大学がある都市に集中するとしての話だが、それでも経営はきつい。あとの予備校は店じまいをするか、現役生を中心とした塾形式の形態になると思われる。
 大学全入時代になって多くの大学で競争がなくなれば高校生の多くはこれまでのようには勉強をしなくなる。そういう学生のために大学はリメディアル(補習)教育をしたり、教養教育の改善をしなければならないが、一部の科目では外部に頼らざるを得なくなるかもしれない。そこで予備校・塾の出番となる。高校レベルの授業をわかりやすく、楽しくやるノウハウを生かせば、大学構内で出前講習を開催することができる。カウンセリングなど学生指導全般にわたったサポートをやるケースも出てくるだろう。インターンシップやボランティア実習、留学生のための語学実習などの面倒も見るようになるかもしれない。また、予備校や塾では転部転科や3年次編入のためのコース、社会人入学のためのコースが増えるだろう。

塾の社会的機能としての3つの提言

 
ここでまた、別の視点から受験産業の将来を展望してみよう。
 文部省はなぜ「生きる力」や「問題発見・問題解決学習」「自己教育力」を強調しているのだろうか。それは、いじめや暴力事件など学校教育における問題への対策であり、同時にキャッチアップの時代が終わり、独創性で競わなければならなくなった日本の国際的立場(科学技術庁は「科学技術創造立国」と言っている)を反映している。詰め込みだけの教育では太刀打ちできないというのである。
 しかし、文部省が叫び、学校がおたおたしているだけでは子供たちにそのような力はつかない。却って混乱を招くだけだ。それを実現して見せるとすれば予備校や塾だろう。なぜなら、予備校や塾では受験勉強の指導の中で本音をぶつけあい、人間的な触れあいと喜びを追求してきた実践の場だからだ。
 文部省や中教審の主張、完全学校5日制および子供のおかれた社会的状況から予備校・塾の形態として次の3点を考えてみた(これから述べることは塾をイメージした方がぴったりするので塾の場合として述べる)。
 一つは、千葉大学の飛び入学に見られるような英才(天才)教育への対応である。前述したように、競争選抜型の大学ではエリート養成教育が行われる。国際的に競争できる飛び抜けた能力を持つ人材養成のためだ。ところが硬直化した学校教育では英才教育はできない。小学校の時から才能を見い出し、つぶさないように伸ばすことは民間教育でしかできないだろう。そのためには数学や物理、芸術、コンピュータ、表現力、企画力などに突出して優れた子供を見守って行ける塾が必要だ。
 次に考えるのは、もの作りのための工房を持った塾の形態である。大学の工学部の教授たちが口をそろえて言うのは「工学部の学生がものを作った実感を持っていない。これでは創造性が育たない」ということ。いくらバーチャルが流行りだとは言っても現実のものに触ったり、ものを削ったりした経験があるのとないのとではイメージ能力、設計能力が違う。そこで、子供の頃からものにさわり、ものを作る工房を公民館でやるようなレベルで全国に展開したいという希望を大学の先生から聞いた。金沢工大にある「夢考房」ではボルトやナットなどの部品を安く売り、工具を貸し出したりしており、学生グループが人力飛行機の製作などをやっている。その先生のアイデアはそれを全国に展開し、子供から老人までが一緒になって工作したり、パソコンで設計をしたり、CGを作ったりするというものだ。私が考えるに、さらに環境教育として自然観察会、地域の環境調査、インターネットを利用した国際的プロジェクト参加などもある。これらの活動は子供にとっては職業感教育にもなる。
 また、塾の社会的役割として、さらに増えるであろう学習意欲のない子供や成績の悪い子供、不登校児などへの対応がある。きめ細かに子供と接して指導し、パソコン通信やインターネットで家庭学習もサポートするオールターナティブスクール(もう一つの学校)としての役割が求められている。
 
 

【図2】塾・新形態の概念図

※省略

民間から教育建て直しの活動を

 
これらの3点は塾の学校5日制への対応策でもある。従来の学習指導を土曜日にやると塾は世間の批判を浴びる。いま述べた活動は学校5日制の理念にも合い、地域の教育力アップにもなり、塾の生き残り策にもなる。文部省は地方教育行政と民間教育機関との連携を進めるとの方針を出しているが、その中には塾は含まれていない。しかし、塾こそが学校教育や家庭が抱える問題を克服する重要な構成要素であることを塾が認識したとき、生き残りの道も見えてくるのではないだろうか。文部省の大義名分は正しく利用しなければならない。
 今後、さまざまな個性を持つ塾が次々に現れ、競争し、新陳代謝を繰り返すだろう。ビッグバンは新参者にもニュービジネスのチャンスを与える。教育界全体に良きにしろ悪しきにしろ、市場原理に基づいた多競争の時代が到来しようとしている。
                             

 

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