<多競争時代の中の大学と受験産業・その12>
〜「私学教育」と新学習指導要領に思う
進学トップ校の生徒は
学校内外でアラカルト学習
東京の進学校の生徒はどのようにして受験対策をやっているのだろうか。聞くところによると、私立も国立もトップ校はあまり受験対策をやっていないらしい。生徒の自主性に任せており、生徒はけっこう学校生活を楽しんでいる、という。中高一貫のメリットを生かし、6年間で効率のよいカリキュラムを組むから受験対策も学校生活をエンジョイすることも可能というのだろう。そして、新しい教育課程が量を減らし、学校裁量の度合いを増せば、なおさら私学の天下になるというわけだ。
ところが、トップ校の生徒はけっこう塾や予備校に通っている。それも「数学はSEGのA先生、英語はNEXUSのB先生、論文は駿台のC先生」というように複数の塾・予備校を利用している。学校では「物理のD先生の授業は聞くけど、あとは寝ている」。そして、学校祭や部活を一生懸命やり、学校生活を楽しむ。生徒は、そういうことをさも当たり前のように話してくれるのだ。
1年で身につく“考える力”とは
こちらは、トップ校を目指してがんばっている中高一貫校の話。ある高校1年生のクラスで、担任の先生が成績について説明した。「ハイレベル模試」というトップ校などレベルの高い学校の高校生が受ける模試だ、という。
「学校のテストや普通の模試に比べて得点も偏差値も低い値だったので、生徒はかなりショックを受けたようです。親からも電話がありました。でも心配しないで下さい。これは難関国立大学用の模試で、考える力が問われます。うちのテストとは違います。うちは、1、2年までにみっちりやって、3年になってこれらに対する対策をやり、追いつきます。これまでもそうでした」
この話を聞いて私は何となく釈然としなかった。“考える力”は1年間で身につくのだろうか。短期間の受験対策では対応できないものを“考える力”というのではないのか。ここで言う“考える力”とは本来の意味での力ではないのではないだろうか。
私学の“学校崩壊”の内容
この2つの例から私が何を言いたいのか、わかってもらえるだろうか。こういう状況も「教育の危機」と言うのではないだろうか。高校の授業は適当にこなし、学校外の塾や予備校の授業は熱心に受けるという状況は“学校崩壊”ではないのか。
自主性尊重と言われる中で漫然と暮らしているとめざす大学進学はおぼつかない、という雰囲気の中で評判の高い塾や予備校の授業をアラカルト的に選ぶ。それこそがトップ校の文化であり、生徒の自主性の発揮かもしれない。学校への対応も自分なりに決める。もし、結果が悪くても自分の選択のせいだ。トップ校では直接的な規制を受けないから“反乱”が起きないだけで、子どもたちの心の中では、すでに学校の壁は溶融しているのではないだろうか。
「塾の方が母校という感じがする」という子どもたちの声がそれを示唆しているようにも聞こえてくる。
“学校ビッグバン”の意味
塾の先生は「東大の問題は表現力が必要だ。トップ校といえども、そういう力はつけてくれないから塾で考えさせ、表現させるようにしている」と言う。新教育課程になっても進学校を支えるのは塾・予備校ということになろう。トップ校の進学実績は学校が作るのではなく、塾・予備校が作っている。そして、入試改革の流れに対して必死に対応しようとしている。
「考え、表現する力をつけるには、早い時期からやらないとなかなか身につかない」と塾の先生は言う。
では、高校3年になってからでも間に合うという、後者の高校の担任の説明は何だろうか。難関の国立大学といえども、そこの入試で問われる“考える力”は、高校3年になってからでも対応できるほどのものだ、ということになる。入試改革を進める大学側からみたら、なんと情けない、となるだろう。そして、そういう面も確実にあるだろう。確かに現実にはそういう面もある。また、一面では、“考える力”に対応しているのは高校ではなく、塾・予備校と言えなくもない。
しかし、学校の理念として、子どもに問題発見・解決能力を身につけさせ、考えさせ、表現させようとするなら、付け焼き刃的に1年で対策をやろうなんて思うだろうか。今の実態は、“子どもの自主性”に任せ、塾・予備校に任せた「私学教育の自殺行為」であるような気がしてならない。
私立学校は新学習指導要領を“私学優位”だというように甘く見てはならない、と私は考える。当然、大学は入試改革を断行してくるとみるべきだ。そのためには、改革の流れの中にある「本当の力とはなにか」「生涯を通じた学力・能力とは何か」の研究・実践に真剣に取り組むべきだ。学校の裁量権が広がるということは、そのためのカリキュラム・指導システムを学校独自に開発できるということだ。それを競うのが“学校ビッグバン”なのだ。
大学入試改革の重要性
一方、大学は奮起すべきだ。「どうせ大学は新学習指導要領を反映した入試なんて、できっこない」という世間の見方に全力で抵抗すべきだ。入試で問題発見・解決能力を見ることはできないのか。あるいは、自分たちが取りたい学生のタイプを公表し、それに合った選抜方法を開発することはできないのか。
大学がいくら、新学習指導要領が学力低下をさらに進行させるものだ、と嘆いてみせても始まらない。“知識偏重”で、学生には“考える力”がなくなった、と指摘したのは大学側のはずだ。その一つの方法として提示されたのが今回の学習指導要領改訂であるとすれば、大学側は入試改革・教学改革をもってそれに応えなければならない。
新教育課程は量的にはスリム化されても、質的には密度が薄くなったわけではない。むしろ、少ない教材や事例であっても、途中経過の理解や判断をじっくりと経験させ、それぞれの子どもなりに考えさせようというのだから、中身は濃くならなければならない。そして、高校以下の教育内容をそう誘導する大きな要因が大学入試である。大学入試は大きく変わらなければならない。
新学習指導要領をみると、かなり大きな変更があることがわかる。必修科目が少なくなり、複数の科目から選択する選択必修かまったくの選択というのがほとんどだ。これだけみても、入試で準備する科目が増え、選択パターンが複雑になることがわかる。選択必修の「数学基礎」の内容は数学史や数学が社会に果たす役割などを学ぶというもので、数学の内容そのものを学ぶわけではない。「理科基礎」も同様であり、これらの科目を入試でどうあつかうのか、あるいは無視するのか、も大きな問題である。新設教科の「情報」への対応も新たに必要だ。さらに、「総合的な学習の時間」や学校が独自に設定できる科目への対応となると、従来の発想では太刀打ちできないだろう。
そこで、新しい発想が大学入試に必要になってくる。高校の科目に縛られない総合問題やAO入試、意欲度テストなどが開発されるかもしれない。あるいは、すべての科目に対応する大学もあるだろうし、複数科目を統合したボーダレス問題や大学が独自に設定する“科目”が出現するかもしれない。
“ユニーク入試”の行方
中央教育審議会が強調する入試改革の一つに“AO(アドミッション・オフィス)入試”がある。これまでは私立大学だけが導入していたが、来年度は国立大学にも広がる。九州大学は、AO入試で受験生の意欲や問題発見能力、論理的思考力などを総合的に評価するという。今後、次の新課程入試実施までにAO入試や他の新しい入試の試みがなされ、検証されていくだろう。いまはこれらの入試は募集人員が少なく、まだ“ユニーク入試”の域を出ない。慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパスでは開設当初は「AO入試の募集人員を6割程度まで広げたい」という意向を持っていた。その後、文部省が推薦入試に制限を設けたこともあって実現していないが、その制限もなくなってきたので、これまでの実績が評価されれば、6割程度まで募集人員を増やすかもしれない。従来型の一般入試が募集人員が少なくなり、そちらの方が“ユニーク入試”と呼ばれることだってあり得るのだ。
溶融する“学校の壁”
問題は、新学習指導要領の実施と大学入試改革の動きが「教育の危機」を救うことになるかどうかだ。もし、入試で問われる“考える力”や大学が求める人物像が、1年程度の対策でどうにもならない本格的な内容なら、たとえ私学の進学校といえども早い時期から対応せざるを得ないだろう。塾や予備校という与えられた時間が短い教育機関ではすべてに対応することは無理だからだ。そこで、学校、地域、家庭、塾や予備校などそれぞれの教育の場がそれぞれの持ち味を生かして役割を分担する流れが出てくると想像される。
学校神話が存在しない時代に、おもしろくもない授業で学校にしばりつけることはできない。前述したように、公立も私立も潜在的には“学校崩壊”の要因をはらんでいる。それは社会全体を反映し、時代の流れの中にあるから「教育の危機」とは言えない。危機は、学校教育を単独に存在させ、そこに子どもたちを収容しようと言う発想にある。
これからは、“ベルリンの壁”ならぬ“学校の壁”を取り払って地域の教育力や民間団体に頼る必要がある。進学トップ校のアラカルト学習は、その一つの過渡的な形を現している。不登校の問題や“学級崩壊”も根はそこにあるのではないか、と私は考えている。
そして、新学習指導要領に問題があるにせよ、次の教育課程によるカリキュラムと大学入試でどのような学力・能力をみるか、子どもたちにいかに幅広い教育機会を保障できるか、が大きな教育の曲がり角になると思う。よくなる可能性もあるし、悪くなる可能性もある。しかし、何もしなければ変化は混乱を招く。その意味で、大学は大きな責任を負っており、今直ちに真剣な研究と実践の積み重ねを始めないと大きな混乱を招くだろう。大学の行動力と創造性が問われている。
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