<多競争時代の中の大学と受験産業・その13>
〜「時間の教育力」がマニュアル人間を自律型に変える
もう
20年も前のある地方都市での話である。大学進学率が急上昇し、大学に行くのが当たり前になったという話になった。どうして親は鰯を食いながら子どもを都会の大学に出さなければならないのか、とある人が言った。すると、元高校教員が答えた。「失業率を低くするためだ」と。だから、大学がレジャーランドと化しても存在理由はあるのだ、と。 時は流れ、大学進学率はさらに上がり、大学は多くの学生を抱えている。にもかかわらず、失業率は高くなるばかり。大学がつぶれれば失業率はさらに上がるという構造は変わらないのだろうが、では、大学のレゾンデートル(存在理由)はどうなったのだろうか。
下がり続ける「学力」
一つのデータをみてみよう。
広島大学・大学教育研究センターの「
これも
20年ほど前の話になるが、高校教員の講演を聴く機会があった。その先生は深刻な顔と声で「高校生の学力は下がり続けている」と訴えた。それから現在に至るまで、高校では学力低下の問題が指摘されている。そして、学生全体の学力にあまり関心を持たなかった大学の先生までもが学生の学力低下を嘆く時代になった。補習教育と教科書改善の動き
大学では補習(リメディアル)教育の必要性が叫ばれている。
『北海道大学の学生による教育指導の評価』のなかに、「授業の内容が理解できていると思うか」と問いかけた調査結果がある。回答は、「強くそう思う」「そう思う」の合計が教員
授業を理解できないという学生の割合が高い原因としては、スリム化が進む高校以下の教育の内容、大学入試の科目数の軽減、進学率の上昇による大学の大衆化、子どもの自主性をつみ取る過保護・過干渉という社会環境、授業改善が進まない大学教育(教員)の独善性などが挙げられている。それに対応する動きの一つとして大学における補習教育があり、授業の改善や教材研究が必要だといわれるようになったのである。
ちょっと古いが、有斐閣のPR誌『書斎の窓』
465を偶然手にしたら、「大学教育の新しい流れと教科書作りの革新」というタイトルが目に飛び込んできた。苅谷剛彦・東大助教授の文章で、彼が見たアメリカの教科書は、教えること、学ぶことを念頭に、工夫を凝らしたテキストが少なくなかったこと、大学教授法の本にはたいてい教材の活用法についての一説が設けられていること、を述べた上で、苅谷助教授らが『比較社会・入門−グローバル時代の<教養>』という新しいタイプの大学テキスト作りをしたことを紹介している。「変化の激しいグローバル時代には、自分で考え、判断し、行動することがますます要求される。しかも、ひとつの社会の常識にとらわれることなく、ものごとを柔軟に洞察する力が求められる」と言い、そのための教科書を作ろうとしたのである。内容的には「三つの学習を設定した。すなわち、1<視点を学ぶ>、2<問いの立て方を学ぶ>、3<謎解きパターンを学ぶ>である」という方針を立て、実際のテキスト作りではいくつかの工夫を取り入れた。一つは「研究会方式」で、原稿を執筆者任せにするのでなく、執筆者全員が自分の担当でない原稿も見て意見を出し合い、書き直しを重ねる。また、できあがった原稿を学生に読んでもらう「モニタリング」もやったという。
同じ「書斎の窓」に、成田博・東北学院大学教授が『民法学習の基礎』という本を執筆したことについても紹介されていた。本の内容は学生がよくやる間違いをまとめたもので、法学部以外の学生と法学部に入ったばかりの学生を対象にしている。成田氏の文章の中見出しを見るだけで氏の姿勢がわかるので書き出してみると、「学生は前提を理解できないだけで、中身が分からないのではない」「大学生というのは、ついこの前まで高校生であった」など。本文中には「ほんのちょっと手を差し延べれば伸びる学生に対して親切に対応していないとするならば、それは我々教える側の責任である」と自戒の言葉も見られる。
執筆に際して心がけたことは、です・ます調で読みやすい文章にしたこと、笑いの要素を入れたことだという。「学生の関心をひく」配慮も必要だとしている。
日本の大学の先生も教科書や教材の重要性に気がつき始めたようだ。知人が執筆したというので手にした「はじめの一歩の イラスト生化学・分子生物学」(羊土社)には、「生物学を学んでいない人でもわかる、目で見る教科書」というサブタイトルがついていた。序文をみると、この本は「医学、歯学およびそれらの関連領域を学ぶ学生諸君が、生化学・分子生物学の基礎知識を身につけるための第一歩となるように編成された教科書」であり、「特に受験科目に生物学を選択しなかったなどの理由で、高校生時代に生物学を深く学ぶ機会が少なかった諸君」を意識して書かれている。
大学教育のレベル
以前、大学審議会委員の先生から話を聞く機会があった。その人は、日本の大学院は教育などしてこなかったし、できない、また、博士号の学位も出してこなかった、と言う。学位を出さなかったのは、夏目漱石が博士号を辞退したということもあり、博士号は一生かかっての研究に送られるものだという考えもあってのことだが、院の指導教員が自分が学位を持っていないのに学生にやれるか、という気持ちもあるようだ。でも、教育はやっているでしょう、と何回か聞いたが、日本の人文・社会科学系の大学院は教育という面では本当にひどかった、と断定した。
私はそれをある大学院の科目等履修生(聴講生)になろうとして実際に体験した。環境政策を学ぼうと最初の授業に臨んだのだが、留学生らしき人が光合成もよく理解していないような質問をした。それに先生が答えたのだが、納得していない様子。私は先生の答えが的はずれだったことに原因があると思って光合成の説明をしてやった。そしたら先生が怒った。「私の時間は質問を受け付けない!」と。余計なことを言うな、というわけだ。やりとりしているうちに先生がますます興奮してきて「渡辺くんは家でゴミ問題をちゃんとやっているのか」ということまで言ってきた。「私はやろうとして努力しているが、妻を納得させられない部分があるので十分ではない」と答えると、「渡辺家としてそれでいいのかね」と突っ込んできた。そこの大学院に在籍する学生まで「私は社会人学生をたくさん見てきたけれどもあなたぐらい失礼な人は初めてだ」と攻撃してきた。訳が分からぬうちに第1回目が終わり、私はあまりの低レベルのやりとりにがっかりして通うのをやめた。
先生とのやりとりの中で「私は環境は素人だ。好きで環境をやっているわけではなく、学校がやってくれというからやっているのだ」という発言もあった。あきれてしまってものも言えなかったが、あとで、その先生は民間で石油化学をやり、大学に入ってからは別の大学で私立学校経営を研究しているという経歴を持っていることを知った。それなら、たとえ環境に素人でも(それで大学院レベルなのかという問題は大きいが)、教育改革が大学院でも必要であり、講義の途中であっても質問を受け付けるような学生参加型の授業が求められていることをわかっていたはずではなかったのか。大学審議会の先生が指摘する問題点はこういうことだったのか、と思ったものだ。
「マニュアル人間」の実態
大学院教育の方に話が飛んでしまったが、学生の学力は低下し、大学の教育力は低レベルだったので、大学は補習教育に力を入れ、教科書作りも学生にあったものを作るようにしようという動きが出ている、という脈絡は理解していただけると思う。
実は、今回のテーマは「大学のレゾンデートル」であり、特に教育の分野でどうなんだ、ということだ。そこで、補習教育をやることが大学の存在理由になるのかどうか、について考える。
補習教育をやる大学はレベルが低いということには必ずしもならない。高校までに必要科目を履修してこなかったり、学力が低い学生に対してきめ細かに指導するシステムはいまや大学の生き残りには必須の条件である。問題はその内容だ。
ある大学で、ビデオやコンピュータなどを使ったマルチメディア型の補習授業を見た。高校生が敬遠しがちな物理の落下運動がテーマ。先生から「大事なことはノートに写しておくとよい」というアドバイスがあったとき、ある学生のパソコンには数行の説明が表示されていた。隣の学生が「書いといた方がいいよ」と言うと、その学生は「わかっているからいいよ」と答える。しかし隣から「試験に出るかもしれない」と再度うながされると「そうだね」とあっさりと受け入れてしまった。
何でもない場面のようだが、私は考え込んでしまった。一つは、空気中と真空中の落下運動の違いは文章で覚えるほどのものではない。日常の経験を組み立て直し、感覚的にわかれば内容を理解し、文章でも表現できるはずだ。もう一つは「試験に出る」ということで写す作業を納得してやってしまうことが理解できない。私には、その作業は同じ文章の穴埋め問題でも出ない限り無駄な作業に思える。写すだけの作業も決して楽ではないのだ。そういう判断はしないのだろうか。
現代の若者は「マニュアル人間」だといわれる。小さい頃から勉強にしても生活にしてもマニュアルが与えられ、次に何をしなければならないか、何をすれば大人が喜ぶか、考える前に正解が目の前に存在する。それを最小限の労力でこなそうとするのだが、前述した学生のように取捨選択の判断もしないようになると作業量は消化できないぐらい膨大になり、やる気もなくなってしまう。たとえば、公式の意味が分からないままその変形まで覚えようとするのだから、これは大変だ。しかも、それでも問題が解けないから、問題のパターンとその解き方まで丸のまま覚えようと努力したりする。到達目標を持てと言われてもそれはとてもたどり着けない雲の彼方にある。だから今を切り抜けるためにはとりあえず目の前に与えられた課題をクリアするしかない。その結果が、“シケプリ(試験対策プリント)”であり、楽勝講義を選択することなのだ。
「時間の教育力」が大学に存在理由を与える
問題発見・問題解決型学習というのは、そういうものへの反省から出てきたのだろう。しかし、このような社会環境の中で育ってきた子どもたちを急に放任にしても自主的な学習活動は期待できない。そこで、カウンセリングシステムを伴うきめ細かな指導システムが必要になる。補習教育もその一つだ。ただ、それではマニュアル型教育とどう違うのだという指摘が出るかもしれない。
私は、精神論で言えば「信頼感でつながれた教育」を実践することだと思う。学生は自分が社会から認められていないと感じている。学生が「(この学校は、この先生は)信じていいんだ」という感覚を持たない限り、いくらすばらしい教育システムを提示しても学生は乗ってこないだろう。そのために、彼らが長い間慣れ親しんできた(苦しめられた?)システムを利用するしかない。いやむしろ、「学校よりも塾の方に親しみがある」と彼らが言う何かがわかれば積極的に評価をすべきかもしれない。
それと関連するのだが、「時間の教育力」を有効に使うべきだ。言い換えれば「待つことができる教育」だ。
入学試験では試験修了時間の1分後にすばらしいアイデアがひらめいてもに点にはならないが、一般社会では高く評価されたりする。あるいは学習時に、「理屈では分かるが、どうもしっくり行かない」というときがある。そのまま進むと、納得行かないことが蓄積してきていやになってしまうことがある。また、解けなかった数学の問題をずっと考えていて、道を歩いているときにふっとひらめき正解に達したということもあるだろう。しっくり行くまで待ってやればいい。学生が動き出すまで時間をかけてやればいい。指導する側は、学生をよく観察し、いろいろな仕掛けをし、使わないかもしれない材料をたくさん用意しなければならない。そうすることがマニュアル型ではない自律型の学習につながり、問題発見・問題解決型に進展して行く、と私は思う。
前述した日本の高校生や大学生の学力低下の問題についても同じことが言える。もし、指摘通りのスピードで学力が低下してきたのであれば、多分現在の高校生は漢字も読めない、四則演算もできない、感動もしない、惨憺たる状況に陥っているはずだ。しかし、現実には子どもたちの状況はそのようには見えない。しかも、私たちには手も足も出ない複雑なゲームを進行させるし、作詞作曲をして歌を歌う。ディベートという知的活動ができるはずもないと思うのだが、小学校から大学までディベート授業がもてはやされている。大人の時間に対する感覚が間違っている証拠ではないのか。また、子どもたちは自律的な活動の場を異なる時限で持っているとも言えないだろうか。
そこで、やっと最初のテーマに戻るのだが、補習教育は大学の存在理由になりうるだろうか。私の結論は、「時間の教育力」を生かせる大学では十分なりうるし、そうでない大学は見せかけ上「きめ細かで親身な(学生を苦しめている状況に迎合するだけのマニュアル型)大学」になるだけで、社会的な存在理由を持たない大学になるだろうということだ。
文部省は留年が増えてもいいと言っている。生涯学習の観点から見れば、人は必要性を感じたときには学習するものなのだ。教育にかける時間はたっぷりあると、鷹揚に構えた方がいい。そうすれば大学は「ゆりかごから墓場まで」商売のターゲットが広がる。いや、「胎児から死人まで(大学が扱っている知識の多くは死人のものだ)」と言った方が正確かもしれない。
|
ERIX-Pressへ|ただ読みWeb文庫へ|「多競争時代の中の大学」目次|前の回へ|次の回へ|